<01>
相変わらずの眠たそうな目で、軽く手を上げながら、口先だけの謝罪とともに現れた男に、土方はぎりっと歯を噛み締める。昨日も一昨日もその前も、この男の姿をほぼ同じ時間に見たような気がするが気のせいではない。
「また、か?」
精一杯の嫌味を込めて言った言葉に、銀時はあっさり頷く。
「うん。そうなんだよ、多串くん」
というわけで今日もよろしく、と土方の返事も待たず、銀時は部屋に上がりこみ、ビデオのスイッチを入れた。柳に風と知りつつも怒鳴るべきか、それともここは堪えて大人の対応をするべきかと悩む土方に対して銀時がかけた言葉は、土方に怒りの臨界点を超えさせ、諦めの境地へと連れて行くものだった。
「何してんの、土方くん。ドラマ始まるよ?」
自分の隣にいつの間にか置いていた座布団をたたき、土方を促す。
昨日も一昨日もその前もあったやりとりだ。いい加減、怒る気も失せるというもの。
はぁとひとつため息をついて、土方は隣に座る。それを見計らったかのように、ドラマのオープニングが流れ出した。
ビデオのタイマー予約をしていたらいいだろうと忠告しても、うちは貧乏だからそんな高性能なビデオはないと返され、見れないなら撮りきったビデオを貸してやるからと言えば、お前もし俺が明日見れたら今日までの分を見てないということがどれだけの痛手になるのかわかってんのか?とキレられ、いい加減にしろよと怒ったら、あーごめんごめんと明らかに適当に謝られる。
律儀に見せてやる自分も自分だ。どうしてこんな奴の相手を毎日してしまうのか、さっぱりわからない。
「いやー。面白かった。助かったよ、土方くん」
「お前、明日はちゃんと家で見ろよ」
「はいはい。善処しますよ」
明らかにその気のない返事だ。せめて真剣に反省する気配でもあれば、土方としても多少は気が晴れるというのに。
「明日は来たって知らねェからな」
何度目の宣言かわからないが、それでも今度こそはと思って告げる。しかし、銀時は笑うだけ。
「また明日ね」
ひらひらと手を振って去っていくその背中が憎たらしいが、また明日も見送ることになるのだろうと、どこかで思う自分が居た。
神田 なつめ
<02>
暑さは日々を追うごとに和らいで、今では随分と過ごしやすい夜が続いている。もうそこまで秋が近付いているのが感じられる。秋の長夜とは言うものの、やはり短い逢瀬の時間。一刻一刻、時を刻む時計の針の音を噛み締めるように、ふたりは眠りにつく。隣に居られるのもあと数時間。夜が終われば、それぞれの生活に戻る。当たり前のことが、少し残念に感じられるのは自分だけではない。相手も同じ気持ちだと知っている。
土方が寝返りを打つと、銀時の背中が目に入った。行為の後はどうにも気恥ずかしく、互いに背中を向けたまま寝てしまう。なかなか見ることのない何も纏わぬ彼の背は、意外にも綺麗で朝焼けの薄い光に照らされて幻想的だった。
「銀時……」
「ん〜?」
手で触れてみる。背中越しに可笑しそうに応える彼に、土方は少し眉を顰めた。その表情は銀時には見えないが、きっと伝わっているだろう。
「お前、背中綺麗だな」
身体の正面には幾筋もの刀傷が残っている。古傷から新しく傷ついたものまで。その中には土方が付けたものもある。それは幾多の死線を切り抜けてきた銀時の、生きている証だ。
しかし、彼の背中には傷はひとつもなかった。
「背中の傷は武士の恥なんだぜ」
ぽつりと呟いた言葉に、銀時はく、と笑いを噛み殺す。
「知ってるよ」
ずっと前を向いたまま、彼は柔らかい声で答えた。触れる背は同じ温度で、優しい。土方は真っ白なそこへ唇を落とした。
「でも、男の勲章でもあるな」
「痛ッ…!?」
触れるだけの口付けから一転、獣のように噛み付く。残った歯形は、傷ひとつない背中に赤く浮き上がった。
「お前ね…」
くるりとこちらを振り向いた銀時の顔は困惑半分、愛しさ半分で。浮かべられた苦笑いにつられて土方の頬も緩む。
「お前も付けてやろうか?男の勲章」
「遠慮する。痛いのは嫌だ」
「お前、痛いってわかっててやっただろ!?」
「うるせー」
もう明け方近い時刻。言い合う会話は囁くような音量で、顔を近付けひそやかに。絡み合う視線と共に距離がなくなって、触れるだけの軽いキスを交わした。
「背中もいいけど、こっちの方が便利だな」
唇まで数センチ、互いの吐息が掛かる距離で土方が笑った。
「何が?」
「キスしやすい」
「同感」
別れの時刻まであと少し。
春日 凪
<03>
今年初めて雪が降った日のはなし。
深夜から降り続いた雪は、見慣れた景色を白く染め上げた。
積もったとまでは言えなかったが、街はうっすらと雪化粧をしてまるで知らない場所のようだ。土方は妙な高揚感に包まれながら、一歩を踏み出した。さく、と足を踏み出すたびに大地が応える。冷えた空気は些細な音もクリアに届けてくれた。
寒さのせいか、外には誰も居ない。自分と同じような学生服の子も出勤するサラリーマンも、いつもは見掛けるのに今日は土方だけだ。白い世界に、ひとりだけ。さらに気分が良くなって、土方はまるで音を奏でるように歩いた。さくさく、と音が鳴る。
ひとつめの角を曲がろうとして、足を止めた。
「おはよーさん」
ブロック塀に凭れるように立っていたのは、担任の坂田だった。土方は吃驚して言葉を失う。何故こんなところに。たしかに彼の家とはそれほど離れてはいないが、ここを通る必要はないはずだ。
「せっかくだし、一緒に行こうか」
「…あ、はい……」
浮かんだ疑問も、彼の言葉に遮られた。
「今日は寒いね」
並んで歩き出すと、担任は肩を竦めて呟いた。銀髪に色素の薄い肌は寒さに強そうな印象だが、そんなことはないらしい。ロングのダウンジャケットを着込み、赤のマフラーをぐるぐる巻きにするという完全防備だ。それでも足りないらしい彼は、は〜と吐息で指先を暖めている。何故か手袋だけしていなかった。
「俺、カイロまで持って来たし」
坂田の手が右ポケットから白いそれをちらりと見せる。それを見て、自分も持って来ればよかったと思った。雪が降ったことに興奮して、今の今まで忘れていたのだ。
気付いてしまえば、急に指先が冷たく感じられる。同じように吐息を吹き掛けると、隣から苦笑が聞こえた。
「ホラ」
「え?」
左の手を引かれて、そのままポケットに仕舞われる。
「ッ、せんせ……」
「あったかいでしょ?」
カイロが仕舞われた狭い空間で、担任の指が絡まる。――暖かい。冷たかったはずの手が熱を帯びていく。ポケットの中でぎゅっと握られる掌に、手袋をしていなかった彼の意図を知った。
「馬鹿じゃねぇの……」
熱が伝わるように頬を染めた土方は、そう呟くのが精一杯だ。振り解くには、今日は寒すぎる。
「冬が寒くてよかったなぁ」
寒いから――。だから今日は仕方ない。
真っ白な絨毯の上には足跡の平行線が長く刻まれた。
春日 凪
<04>
一段高い教壇。その数十センチが、俺とアンタを隔てる何よりの壁だ。
大人ぶるのは簡単だった。最初は咽てばかりいた煙草も慣れた。酒も女も一通り経験した。それでも、どうしても追いつけない距離がある。
今日もアンタは教壇の上から俺を見下ろして、にこにこ笑う。アンタはそこに立つだけで、教師になる。大人になる。身長だってそんなに変わらないのに、アンタは俺を見下ろす。それが当然のことのように。
「土方は、何になりてぇの?」
「大人」
「そんなんじゃなくて、将来の夢。進路相談だって言ってるだろ」
「じゃあ、あの場所に立てる奴」
俺が指差したのは、数十センチの台。いつもアンタが俺を見下ろしている場所。
「……ふぅん。教育大ってことでいいか」
そう言って彼は、進路希望用紙にたったそれだけを書き込んだ。
将来も何もいらない。今俺が欲しいのは、アンタと並べる場所だよ。
(ほしいものはたったひとり)
春日 凪
<05>
若干二十歳という若さで検事の座に就いた彼は、その類まれなる才能で被告人の有罪を勝ち取ってきた天才である。
名を、土方十四郎。
艶やかな黒髪に切れ長の瞳、隙のない論理を並べ立てる唇は薄く、立ち振る舞いも彼が扱う整然された戦術同様、澱みなく美しい。土方は検事局だけでなく、法曹界、ひいては世間の注目の的だった。
しかし、検事になって数年一度も負けたことのなかった天才検事は今法廷で、机に拳を打ちつけ屈辱に肩を震わせている。
机上に散らばった法廷記録を必死に漁るが、この状況を打破する証拠が見つからない。視線を上げれば数メートル先で新米弁護士が指で眼鏡を上げながら笑っていた。
よりにもよって“アイツ”に。土方は低く呻く。
坂田銀時。数ヶ月前にバッチを受け取ったばかりの新人弁護士だ。
へらへらと笑うだらしなさそうな顔つきに、彼の行う尋問のように方向性の定まらない銀色の髪。まるで世間話をするようにくだらないことを聞き出しては、新たなる証拠を見つけ出す。
きちんと準備をしてきたのかと疑いたくなるほどの行き当たりばったりな新人の論述に矛盾を見出せない己に悔しくて歯噛みをした。
「土方検事、何かありますか?」
裁判官がこちらをちらりと見下ろす。開廷当初は有罪確実だと思われていた場の空気は、あの男によって一変させられている。ここで異議を申し立てなければ、今回は証拠不十分で判決は先延ばしにされてしまうだろう。
だが、しかし――――。
「……、ありません」
「そうですか、では今日はここで閉廷します。後日、弁護人・検事共々更なる証拠を持って臨むように」
法廷に木槌の音が響き渡る。弁護人席で彼がにやりと笑った。
「見目麗しい天才検事殿が、白目剥いて歯を食い縛る姿ってのは見てて爽快だな〜」
ふたりの闘いはまだ始まったばかりである。
春日 凪