大江戸幼稚園の夏の一大イベントに、お泊り会というものがある。その名の通り、夏休みの間一日だけ幼稚園にお泊りするというイベントだ。これは年長組だけの行事で、土方は今年初めて自分の担当するクラスが参加するということになる。去年までは補佐的な仕事が多かったが、今年は率先して動かねばならないのだ。園児たちを迎え入れる準備だけでなく、実際に彼らの反応を見ての判断、もちろん先生として一緒に遊んであげたり、何かあれば叱ったり、やることを挙げればきりがない。
久々に会った友達や先生たち、日頃見ることのできない夜の幼稚園など、園児たちは何もかもが新鮮でいつにも増して元気いっぱいである。日が暮れるまで遊び尽したあとは先生たちお手製のカレーを皆で食べて、自分たちで布団を敷いて横になる。土方のクラスも、誰と隣がいいと頑なに主張して曲げない子や、こっちの枕がいいとお友達の枕を片っ端から奪う子がいたりと(ちなみにどれも同じである)、きゃあきゃあと大騒ぎしつつ消灯の時間を迎えた。
いつも騒がしい教室はしんと静かになる。布団は昨日、先生たちが総出て干したのでふかふかだ。こんなにたくさんの人数で寝ることに興奮していた子供たちも、疲れていたのだろう、電気が消えてしばらくするとあちらこちらで寝息を立て始めた。
その光景を見て、土方は満足そうに微笑む。準備も含め、かなり大変だったが彼らの天使のような寝顔を見るとそんな疲れも吹き飛んでしまう。でも、それは精神的な話であって身体に残る疲労感は無視することが出来そうになかったが。それはどのクラスの先生も同じようだ。お互い達成感に満ち溢れつつも、どこか疲れの色を滲ませている表情に苦笑いし、明日の段取りを軽く確認してから今日は早めに眠ることにした。
身体が重い。特に足は朝からずっと歩き回っていたから当然だ。
土方は夢の狭間でうつらうつらと考えを巡らした。自分が思っていた以上に、身体は随分と疲れていたようだ。横たえた身体はずしりと重みを増し、寝がえりを打つにもうまく動けない。それは下半身に掛けて顕著に見られた。足腰が石のように重い。今日の働きを考えれば仕方ないかもしれないが、さすがに自分の歳でこんなにも足に来るとは思ってなかった。若さを過信し過ぎたか。
「ン……」
それと、蚊がいるのかもしれない。足の膝の上あたりがむず痒い。その感覚はぽつり、ぽつりと移動しているので、布団に入り込んだ蚊があちらこちら噛んでいるのだろう。動きやすいようハーフパンツだったのが仇となった。時期的にも減ってきたと思い、蚊取り線香も焚いていない。自分はともかく、園児たちが食われてしまったら大変だ。痒い痒いと騒がれるだけでも、人数が多ければ大事になる。
「…、ッ……ン」
起きて蚊取り線香を用意するべきか迷う。でも動くには下半身が重すぎる。だが、足のむず痒さは増える一方でいよいよ深刻になって来ている。なんだか患部は熱を持っているようで、妙な温かさまで覚えた。蚊に食われているというよりは、なんだか別の―――。
「――!?」
そこで土方の意識は一気に覚醒した。ばっと被っていた布団を捲り上げると、自分の膝から足先に掛けて覆い被さっている物体がある。闇に目を凝らさずとも判別できた。薄く銀色に光を放つふわふわとした感触、そして自分より高い体温。言うまでもなく、土方が受け持つ子供、坂田銀時である。

「お…お前、何やってんだっ……!」
あまりのことに、普段の子供に対してのものとは違う口調になってしまった。しかし、銀時はゆっくり顔を上げると「あ、せんせーおきた」と落ち着いた反応を返した。寝惚けて布団に潜り込んだわけでもなく、ホームシックで抱きついていたわけでもない。いつもと変わらず平然とした態度で土方の上に乗っている。だが、土方にしてみれば、それらのほうがどれだけ楽だっただろうか。寝惚ける子供を自分の布団へ運ぶのも、母親が恋しくて泣く子供をあやすのも、今の状況に比べれば遙かに楽だった。彼はこの前のプールの時間に、さすがの自分もさらりと受け流すことのできない仰天発言をしたばかりだ。
「だってせんせーのあし、かくれてたから…」
「!!」
そう言って銀時はちゅ、と膝に唇を寄せた。
「オイオイオイオイ!!だから、さっきから何をしてる…っ!?」
土方が感じていたむず痒さの正体は、銀時の口付けだったのだ。それも、どこで覚えてきたのかというぐらい、子供の可愛い戯れと言うには済まないようなものである。もちろん、彼はまだいたいけな子供で、そういう意味など全く知らないはずで、とすれば天性の才能と言うしか他ない。
「おれのファーストキスだぞっ!」
銀時はぱっと顔を上げて自信満々に言い放った。覚えたての知識を満足気に披露する様は年相応で微笑ましいが、根本的に何かが間違っている。第一、キスはそんなところにするものじゃないだろう。混乱で返す言葉が見つからずに唖然としていると、無反応な土方に拗ねた銀時が少し声を荒げた。
「だって、すきなひとにちゅーするのはふつうだろっ!?」
「わ、ばかっ、みんな起きるだろうがっ!」
他の園児たちがふたりを見ても、単にじゃれているようにしか見えないだろう。当然のことながら、子供たちに大人の不埒な世界などわかるわけがない。だが、土方はそこまでの余裕がなかった。
「坂田、ちゅーはそこじゃなくて口にするんだ。わかったな?よし、離れろ」
まだ5歳の子供に何を説いているんだというツッコミは混乱した頭には浮かばなかった。とりあえずこの体勢から抜け出すことが最優先事項だと脳が判断する。しかし、銀時は引かなかった。丸い頬をぷうっと膨らませて反論する。
「でもおかーさんはおとーさんの口じゃなくてほっぺにちゅーするもん」
だから口じゃなくてもいいんだ!と銀時は主張する。このときばかりは子供の前で仲睦まじい様子を見せる彼の両親を恨んだ。
「じゃあ口かほっぺだ。ともかく足は駄目だ」
「なんで?」
「えっ…」
「なんであしにちゅーしちゃだめなの?」
銀時は心底不思議そうに問うてきた。その真っ直ぐな瞳に土方は返答に詰まってしまう。
足に口付けるのがいけない理由。真っ先に思い付いたのは、その行為自体がとても淫猥だからだった。唇や頬といった割とオーソドックスな箇所以外のキスは倒錯感が増す。そして、その行いはどうしても先にある性行為を彷彿とさせた。だが、唇を触れ合わせる本当の意味を知らない子に、キスと愛撫の違いなど教えるわけにはいかない。
「き…、汚いからっ!」
これで勘弁してくれという哀願も入り混じっていた。実際、口を吐いて出たのは本音である。そんなところに口付けないでほしい。幼稚園にはもちろん風呂などなく、今日は簡単にタオルで拭いただけなのだ。罪悪感と羞恥心でどうにかなってしまいそうだ。
「きたなくなんかないよ。きれいだもん」
しかし、大人の事情を知らぬ子供は平然とそう言ってのける。
「だ…だから、造形の問題ではなく…」
「ぞーけ?よくわかんない」
銀時は土方の上に乗ったまま、ことんと首を傾げた。その様子はまさに純真な子供だというのに、その視線が足から離れないというのが泣けてくる。この先、銀時がどんな風に成長していくのか不安が過ぎった。だが、何よりの不安はこの先、自分がどうすればいいのかだ。これは保育士生命にも関わることじゃないだろうか。
「せんせーもわからないことってあるんだねー。でもわかんないなら、おれのかち」
土方の心配もよそに、銀時は満面の笑みを浮かべた。
「土方先生、どうしたんですか足…、蚊に噛まれました?」
「はあ…」
蚊よりも厄介な存在に食われそうになりました、なんて口が裂けても言えない新米保育士・土方だった。
春日 凪
園児の呪いから逃れるために、Tさんところへ供養しに行ったら更なる強力な呪詛返しを食らいました。