100万ドルの口付けなんて、映画の世界ですか?


歌舞伎町の一角にある『万事屋』の事務所。
いつものようにこの事務所のオーナーである坂田銀時が、ソファーに身体を預けて悠々と惰眠を貪る姿が……なかった。
自堕落を絵に描いたような生活をしている銀時が、ここ最近は決められた時間に起床し、身なりを整えて出掛けている。この際、起床時間が一般人とは真逆の夕方であろうと、出掛け先がホストクラブだろうと、あの無職に片足ならず両足を突っ込んでいるような男が、長期の仕事をしているという事実が有り得ない状況なのだ。
「…まだ続いてんのか」
主の姿がないオフィスで土方は呟いた。
そうなのだ。1ヶ月ほど前のGOEMONの依頼で潜入したホストクラブから、彼はまだ抜けられずにいるのである。
『実は俺ゲイなんだ』
銀時は店に自分の嗜好がバレることでクビを宣告されるなり、付いていた固定客が減るなりするだろうと踏んでいた。確かに一端は客に噂が広がり、銀時の売り上げは落ち込んだ。しかし、その後は予想外の展開を見せる。うまくいったと思ったのも束の間、徐々に客足は回復していった。奇しくも、すぐ近くにゲイタウンがあることで、店側も客もそれなりの耐性が付いていたのだ。他の女に取られるぐらいなら、と考える者も少なくないだろう。それに加えて、噂を聞きつけたゲイバーのマスターたちが新規として来店してきたものだから、店側としてはますます銀時を手放さなくなった。結果としては逆効果だったわけだ。
土方は今は誰も座っていないソファーへ腰掛ける。事務所には新八の姿も見当たらなかった。時刻は午後9時前――。もしかすると既に帰宅したのかもしれない。土方は閑散とした部屋で静かに煙草に火を点けた。
煙草の切っ先を銜える際に触れた自分の唇に、忌々しい思い出が蘇る。
「何が逃げ口上だ……」
ゲイだと主張するために銀時が取った行動は単純明快、実演することだった。客の前で口付けられた記憶は、ずっと怒気を帯びて腹の底に溜まっている。別にキス自体をどうこう言うほど純粋ではないが、全てが無駄になったことが腹立たしいのだ。
「俺の唇はそんな安かねーんだよ」
これが本音である。簡単に奪っていったあの男も憎いが、意味のない口付けはいっそう不快だった。
「あ、土方さん」
ぎ、と錆びついた音を立てて開かれた扉の向こうに居たのは万事屋の一員、新八だった。ただし今は優秀事務ではなく、単なるアイドルおっかけバージョンらしい。気合いを込めて掲げられたハチマキの中心に真っ赤なハートが揺れている。
「お通ちゃんのイベントの帰りだったんですけど、見上げたら灯りが点いてたんで、銀さんお店サボったのかと思って見に来ちゃいましたよ」
思い返せば、先週あたりから何度も聞かされていたような気がする。銀時と同じく右から左へ流していたので気に留めていなかったが、イベントのために休むと言っていたはずだ。
それにしても、休日にもかかわらず銀時の出勤の心配までするとは、彼も根っからの世話好きだ。そう告げると、新八はふと考えてから笑顔で答えた。
「僕が心配しているのは銀さんの生活でもなんでもなくて、給料です」
「……そうか」
清々しいほどに言い切った彼に、土方は愛想笑いを返すしかない。派手な半被を着てはいるが、経理も営業もひとりでこなす強かさは健在のようだ。ホストとして働く銀時の給料はそのまま万事屋の資金となっている。
「でも、銀さんがずっと働いてるのって変な感じですよね」
新八は銀時がいつもその身を投げ出しているソファーを見つめた。そろそろこの静かな事務所にもあの覇気のない声が恋しく思えてくる頃か。
「いつまで続ける気なんでしょうか…」
もう閉めると言った新八と連れたってビルを出る。別れ際、少し寂しげに零した彼に土方は小さく微笑んだ。
「俺もあの金髪、見飽きたしな」
金時と名乗る彼の金色を思い浮かべた土方は、仕方ないかと呟いて歌舞伎町の闇に消えた。


+ + +



ホストクラブ『ゴールド』は、今夜も盛況だった。
「金ちゃん、最近トシくんと上手くいってる〜?」
「ねぇねぇ、彼どんな感じなの?芸能人に例えたら誰に似てる?」
「私見たことあるよ。黒髪だった!」
「え〜、それじゃわかんないよ〜」
本来なら一対一といったように少人数でテーブルを囲むのだが、金時がゲイだと広まってからはこんな風に多くの女性が彼を囲んでいた。今までは人気ホストを巡っての恋敵だった彼女たちは金時の彼氏の出現で一気に親密になり、金時とトシの恋を応援する会なんてものも出来上がった。彼女たちの目当ては話でしか出会うことの出来ない『トシ』なのだ。
「一緒にここで働けばいいじゃない?私もトシくん見たいわぁ!」
「あずみさんがトシくん狙ってるよ、金ちゃん!」
「いい男は目の保養でしょ〜♪」
「はは…そうね」
今月に入って、ますますバラエティに富んできた固定客を見渡して金時――もとい銀時は溜息を吐いた。あのアゴに土方をやってもいいから、早くここを抜け出したいと思う彼である。
今回ばかりは銀時も反省していた。ちょっとした遊び心が墓穴を掘ってしまったのだ。簡単に去ってしまうのは味気ないと、少し脚色をしたばかりに予定よりも1ヶ月も長く働いてしまっている。このままいくと、来月もこの場所に居るような気がして、銀時はぶるっと身体を震わせた。勿論、彼は3ヶ月も連続で働くなど経験したことがなかったので、そこは未知の領域なのだ。
「ハァ……」
「金時さん、新規のお客様で〜す!」
銀時はひとり凹んでいると、ベルボーイの役割をしている男が跳ねるような声を上げた。金時のテーブルは奥のボックス席をくっつけて大人数に対応している。新規でこの人数は可哀想だが、金時を指名したということは了承済みなのだろう。ボーイに案内されるようにひとつの人影が近付いてくる。また増えたと、ますます窮地に追い込まれた銀時は、俯いてここから逃げる計画を立てていたため、その人物が誰であるか気付くのが遅れた。
「金時……」
新規の客であるはずの人物から掛けられた声が、聞き慣れたものであると気付いて顔を上げると、その客はふっと顔を歪ませた。
その顔はよく知っている。そう、「彼」だった――。
「ひ…」
「俺、駄目なんだ!!」
ひじかた、とその名を呼ぼうとした銀時の言葉を遮るように、彼は大声を上げた。周りに居るホストも客も、何事かと目を見開いている。
「俺、金時がホストしてるなんて……」
土方の口から紡がれた『金時』という言葉に、銀時は今彼が『トシ』であることを知る。土方が何を考えてここに乗り込んできたのかはわからないが、ここは一芝居打ったほうが良さそうだ。即座に答えを出した銀時は、憂いを帯びた表情を浮かべ、今度こそ彼の名を呼んだ。
「トシ…どうした急に?」
銀時の口から零れた名前に、周りの女性客がきゃあと叫ぶ。噂でしか聞かない人物が、目の前に現れたのだ。当然彼女たちのボルテージも上がる。
「やっぱり…お前が女の子と、こうして喋ってる、のは……」
土方の視線が一度銀時から外されて、隣に座る女性に向けられた。アルコールが入っているせいか自然に組まれた腕に、面白くなさそうに目を細める。その表情を見て、隣の彼女は慌ててその腕を解いた。
「……もしかして」
銀時はここでようやく土方の意図を理解する。自分に対していつも冷たい態度ばかりを取っている彼が、今回は助けてくれるらしい。珍しいこともあるもんだ、と素直に受け入れることにした。
「嫉妬してる?」
銀時は探るように甘えた視線を送った。周りはふたりの動向を固唾を呑んで見守っている。はっと弾かれたように恥じるその仕草は、演技だとわかっていてもうっかりときめいてしまう。さすがは銀時と肩を並べるエージェントだ。相手の心を擽る術はしっかり心得ているらしい。
「……言えなかったけど、本当は嫌だ」
「そっか……」
銀時は立ち上がり、目の前の土方の身体を抱き締めた。
「ごめんね」
「……き、ん」
土方も背に腕を回して抱擁に応える。自然近付く耳元に、銀時にだけ聞こえる小さな声が落とされた。
『感謝しろよ』
『それはもう心から』
その声は可憐なトシから程遠いぞんざいな態度だったが、銀時にしてみればそっちの方が何故か安心して、知らず笑みが零れてしまう。
「トシ……好きだよ」
再び銀時の悪戯心に火が点いた。先月調子に乗りすぎて失敗したのは既に忘却の彼方だった。失敗を引き摺らないのは銀時の長所、そして失敗が生かされないのも銀時の短所だ。ふたりから醸し出される甘い空気に乗るように、銀時は愛の言葉を囁いた。
「へ?……ちょ、ッ」
後ろへ逃げる土方の腰を捕まえて、彼の唇を奪う。ぐ、と押し返された腕を掴んで閉じ込めた。
「ン――!!」
ここで感情に任せて怒鳴り散らせば今までの演技がパアになると考えているのだろう。土方はただ身体を強張らすだけに留まった。しかしそれは逆効果で、銀時が更に調子に乗る原因となる。忍び込ませた舌で彼の歯列をゆっくりなぞる。上顎を擽ると、腕の中の体がびくりと跳ねた。
『あとで殺す』
合わせた唇だけで、土方が罵る。その動きは、周りからしてみれば熱烈なキスの応酬にしか見えないだろう。至近距離で開かれた瞳が怒りに燃えているのを確認した銀時は、ゆっくりと顔を上げた。
「やっぱり俺はトシしか居ないよ」
「お、お前。こんな、とこで……」
潔く解放された土方はすっと視線を落として恥らう演技も忘れない。かなり濃厚な口付けをしたつもりだが、彼はまだまだ冷静だったようで、心の中で畜生と呟く。
「恥ずかしかった?でもみんな俺らを応援してくれる子ばっかりだから…」
周りをちらりと見遣ると、そのとき今までふたりのラブシーンに見惚れていた客たちが口々に騒ぎ出した。
「金ちゃん、すぐにお店辞めなさい!」
「そうだよ!トシくん可哀想だもん!」
「ホント?俺もそう思うんだよなァ」
金時とトシの純愛に心打たれた彼女たちが、次々と口添えする。しかし、店側が黙ってはいなかった。オーナーが出てきて、事態を収拾させようと金時を説得し始める。
「いや、でも恋人にここまで言われちゃ、辞めるしかないと思うんだよね」
「この店はアフターもしないし、全然怪しいことなんてないでしょ?」
「店長も恋人に可愛くおねだりされたら聞いちゃわない?俺トシ命ですからぁ」
「でも……」

「いい加減にしろ」

オーナーと金時の言い合いに口を挟んだのは、再び新規のお客様だった。
「と、特盛ママ!!」
金時の固定客のうちのひとりであるあずみが声を上げる。本来の性別が男であるあずみのママに当たるということは、言うまでもなく彼もまた歌舞伎町に根を張るオカマだということだ。
「アンタねぇ、こんなに美しい純愛が目の前で繰り広げられてんのよ…?それに泥かぶせちゃうなんて無粋もいいとこだわ」
「……いや、俺は別に…」
「それともなぁに?ゲイは恋愛しちゃあいけないっての、アア?」
しっかりと施された化粧は、もとの造りが造りだけにかえって不気味だ。男にしても高いだろう長身から、化け物風情で凄まれては店長も後ずさるしかない。
「惚れた人を幸せに出来なくて、お水の世界で成功するわけないでしょ。愛を知っているからこそ、愛を与えることが出来るのよ。これがオカマ道、お水の花道よ!!わかったら道を開けんか、この糞野朗どもがァァァ!犯すぞ、コラァァァァ!!」
特盛の迫力は凄まじかった。応援しているはずの金時の客ですらビビって、下がってしまうほど鬼気迫っている。もともとの容姿がオカマを語るには不向きだということもあって、その様はまさに鬼神のようだった。その彼に送り出されて、銀時と土方は店を後にした。


+ + +



「は〜、あれはナシだな……化け物じゃん」
タクシーに乗り込んだ銀時と土方は、車内に入るや否や繋いでいた手をさっさと離し、後部座席でこれでもかというほど距離を取った。演技の中のふたりはぴったりを肩を寄せ合っていたが、やはりこのくらいの距離の方が合っている。
「それよりお前、何してくれてんだ」
「へ?」
「とぼけんじゃねーよ、キスだよ!別にあそこはいらなかっただろ!!」
「あ〜、ノリ?」
「…………はぁ」
銀時の隣で土方が大きく息を吐いた。彼がキスのひとつやふたつで文句を言い続けるような、ピュアな人物ではないと知っている。案の定、土方はそのまま黙り込んだ。
「それよりホント助かったわ。このまま牛馬のように働かされるとこだった」
「……7割だ」
「えーと、この手は何かな?」
差し出された手を指差して、銀時は首を傾げる。なんだか嫌な予感がするのは、土方の凶悪な笑みのせいだろう。
「成功報酬だよ。お前が『ゴールド』で稼いだ金の7割」
「な、7割…?」
「誰がお前の尻拭いしてやったと思ってんだよ」
そう言うと土方は座席にふんぞり返るように座り直した。上から睨みつけられるキツイ視線に、ふと彼と出会ったときのことを思い出す。攻撃的な表情は、彼が一番魅力的に映る表情のうちのひとつだ。鋭利な刃物のように、冷ややかで美しい。

「……もしかしてキスしたこと怒ってんの…?」
「俺の唇は安くねーってことだ」


『性格が最高に悪いところも魅力的』なんて、言えるほど銀時の懐は暖かくも広くもないので、とりあえずこのタクシー代は出させようと決意した。



春日 凪



金時尻拭い編

歌舞伎町ホスト物語