土方が銀時とそういう関係になってからも、彼は一度も自分から手を伸ばしたりはしなかった。
縋っていると土方は思う。依存しているのだ、自分に触れることのできるという存在に。
あの日、初めて触れた他人の熱は想像以上に心地が良く、それがあの憎たらしい銀時であることさえ忘れて身を任せてしまうほどだった。 自分のことを好きと言った唇も優しく引き寄せる腕も、土方にとっては全てが唯一無二の存在で、その事実は彼の冷静な思考を奪うのには十分だったのだ。
あれから何度か肌を重ねても、銀時に拒絶反応が出ることはなかった。 しかし、この先も大丈夫だという確証はない。そもそも、どうして土方の皮膚が他人にアレルギー反応を起こさせるのかさえわからないのだ。銀時だけが大丈夫な理由も、またそれが永久的なものかなど、わかるはずもなかった。
彼の体温を感じるたびに、胸の奥で恐怖が生まれる。慣れてしまってはいけないと、頭の中で警鐘が鳴る。そう、これは偶然が重なっただけに過ぎない。 いつ壊れてもおかしくない毎日を永遠に信じられるほど土方は愚かでもないし、物好きでもなかった。
今の状況を「普通」にしてはいけない。この心地よい日々が当たり前になってしまえば、それが壊れたときの喪失感は計り知れないだろう。 臆病者だと罵られたとしても、土方にとって唯一の存在を失うことは今や一番の恐怖になっていた。


「もう終わりにしようぜ」
万事屋の居間に響いた自分の声は、思った以上に掠れていた。
「何を?」
向かいのソファで漫画雑誌を読んでいた銀時は、唐突な土方の発言にちらりと視線を上げる。 だが、その眼には疑いも非難の色もなく、土方は少しだけ安堵した。けれど、このまま淡々と話が進むとは思っていない。 これから自分は彼を傷つけ、そして自分自身をも傷つけるのだから。
「俺とお前の不毛な関係だよ」
「不毛って…。お前の場合、誰とでも不毛じゃねぇか」
「………」
「悪い。失言だった」
誰とも肌を重ねることの出来ない土方は確かに何も生み出すことはできないだろう。けれど、心を通い合わせることまで禁じられたわけではない。 こうして共にいることが、何も生み出してはないと思いたくはない。しかし、それではいけないのだ。 あくまでも自分は異質の存在で、他人と築く関係は銀時が言うように不毛でなければならない。それが土方にとっての「普通」だったのだから。
「わかってるなら話は早い。こんな無駄なことに時間を費やすのは止めにしようぜ」
「無駄?何が?」
「だからお前と俺がこうして一緒に居るってことがだよ!」
「……あー」
本当はこちらの気持ちに気付いてとぼけているだけだと思っていたが、どうやら彼は本気で理解していないようだった。
「無駄ねぇ…。少なくとも俺は意味のある時間だと思ってたけどな」
ようやく別れ話を切り出されていると気付いた銀時は、手にしていた漫画雑誌を閉じて土方へと向き直る。しかし、その態度は妙に落ち着きはらっていて、怒られるなり縋りつかれるなりするだろうと思っていた土方は少し肩透かしを食らった気分だった。
「お前も平気そうだし、いいじゃねぇか」
「いやいや。平気なんじゃなくて、承諾する気がねぇだけだから」
銀時の口調には強がりも負け惜しみもなく、また根拠のない自信に溢れた勘違いも含まれていなかった。まるでこの話自体、無意味なものだと言っているようだ。
「悪いけど、俺はあのときお前のこの先を奪う覚悟を決めたんだよ。俺だけしか無理だっていうとこにつけ込んだ罪も責任も全部背負っていってやるって腹括ったからな」
だからお前だけ逃げんなと銀時は告げた。
「……た、ただの開き直りじゃねぇか」
「まあそうとも言うな。てなわけで、お前の申し出は却下だ」
「………」
そんな重い言葉をどうしてすんなりと吐くのだろうか。土方は嬉しさと罪悪で顔をぐしゃりと歪める。どうなるかわからない不安は彼も同じことで、失う恐怖もまた同じなのだ。
銀時から与えられる感情を見誤っていたわけではない。今まで聞いた愛の言葉や引き寄せる腕の熱さも疑ったこともない。けれど、どうして忘れていたのだろう。土方が銀時を想うように、銀時もまた自分を想っていることを。
それでも彼は、先にある不幸より目の前の幸福を選んだ。いつ来るかも知れない不安で今を潰しては意味がないと、こちらを見つめる目が語っている。
「そんな覚悟俺にはねぇよ…」
土方は視線を落として呻くように呟いた。
本当なら気付きたくなかった。銀時が自分のことをどれほど想っているかなんて。この心地良い感情の海に溺れてしまえば、きっと自力で浮き上がれなくなってしまう。そのまま死を迎え入れるなら、ここで逃げてしまいたい。
脆弱な自分自身と向き合う覚悟なんて、まだ出来ない。
「そりゃそうだろうよ。俺よりお前のほうが重症だろ?」
「何が?」
「俺に惚れてるの」
「――ッ!?」
思えば銀時から自分の気持ちを確認されたのはこれが初めてだった。いっそ揶揄めいた問いであれば、締まりのない顔であれば、どれだけ良かったか。口にした事実が真実であると知っている目で、声で、問われてしまったら土方は黙り込むしかない。
「ま、俺もこうなるのわかって手を出したから。責任は半分あるな」
「半分だけかよ…」
「当たり前だろ、俺らの問題なんだから」
銀時は僅かに表情を緩めた。けれど土方を射抜く瞳は真剣そのもので、あの廃工場での出来事を思い起こさせる。身体と心に火を付ける目だ。
「土方。今お前が抱えてる不安はお前ひとりのもんか?先にある恐怖はお前ひとりのもんか?――違ぇだろ?なら、ここで俺たちが別れる理由なんてねぇよ」
「………」
誤魔化されている感覚は拭えなかった。銀時の言葉を素直に受け取れるほど馬鹿でもなかった。それでも手を伸ばさずにはいられなかった。
衝動的に行動すれば後悔するのは目に見えている。けれど、抑えが効かないのが恋だと土方は初めて悟った。


ソファに座る銀時の身体を跨ぐ。恐る恐る伸ばした手は彼の首筋に触れて、動脈の熱と動きを感じ取った。そのまま襟刳りを割って鎖骨、肩へと滑らせる。相手の体温を感じるたび、自分の体温もまた上がっていくようだ。
「土方…」
誘われるように口付けると暖かな舌が迎え入れる。初めて主導権を握った口付けはたどたどしくて、何度も歯がぶつかった。それなのに身体は歓喜に震えて応える。この男を手離したくないと訴える。
「ン…、ぅ」
角度を変えて深く交じり合う。重なった唇からどちらともなく吐息が漏れて、劣情を煽った。身体を繋げるという行為は、これ以上ないという近い位置で互いを感じることだったと今更になって気付く。特殊体質の土方であろうと、五体満足の銀時であろうと、テリトリーを侵されてまで距離を詰めることを許せる相手が特別でないはずがない。
自分は、彼しか居なかったのではなくて、彼を選んだのだ。
「…銀時、触ってくれ」
自覚するとどうにも収まらなかった。土方は隊服のスカーフを抜き、シャツの前を寛げる。自ら服を脱いだことも強請ったことも初めてだ。
「ちょっと積極的すぎねーか?」
銀時は少し笑って、望み通りに土方の肌に触れた。心臓の上、重ねられた他人の体温に背筋が甘く痺れる。
「…ッ、もっと…」
思わず零れた文句に銀時は「どこで覚えてきたんだコノヤロー」とバツが悪そうに、それでいて嬉しそうに顔を歪めた。



「悪かったな」
銀時の肩に頭を預けながら、土方は呟いた。本能の赴くまま貪った荒々しい行為の名残に身体は侵されていたが、思考は驚くほど冷静だった。
先を奪う覚悟と罪を背負っていくなんて、この軽薄な男にそんな重たい台詞を吐かさせたのは自分自身だ。流れる水のように柔和で気ままな男に枷を嵌めた。 これもまた立派な罪だろう。
「ま、わかりゃいいや」
銀時の掌がそっと頬を撫でる。この温度がある限り、自分たちは罪と幸福を感じ続けるだろう。ただそれが、ふたりが共に在る理由になればと土方は強く願った。



春日 凪



面倒なことはそのときに考えましょ、ってポジティブな話だったはず…。どうしてこうなった。


その罪と幸福