「疲れるなぁ」
教壇に立つ数学教師には聞こえないような小声で、千石は呟いた。
ぱちり、と閉じられるケイタイ。
外は真っ青な空。換気のため少し開けられた窓は白いカーテンをはためかす。 ふわりと、草の香りがした。
今日は爽やかな夏晴れです。お天気おねぇさんがにこにこして言っていたのを思い出す。 彼女は千石の好みのタイプで。清楚な色のスカートからすらりと伸びた足が大好きで、毎朝その番組をチェックしている。
(そう、俺は足フェチ。つか、男はみんな地を這う蟻になりたがってるハズ)
ぼんやり、どうでもいいことを考える。
授業なんてはじめから聞くつもりもない。昼休みのあとの5限目。 ぽかぽか陽気と相成って突っ伏してる頭、一、二、三……。ほら、真面目に聞いてる子を探す方が大変だ。 千石も例に漏れずさっきからケイタイばかりいじっている。

右の手にいつもの振動。 画面をチェックすると、隣のクラスの女の子からだった。彼女も暇してるんだろう、クラブのこととか昨日のテレビの話とか、ごちゃごちゃ書いてあった。 千石は慣れた手つきで、彼女同様どうでもいいことをつらつら並べて返信した。

(メール送るの好きなんだよね)

絵文字を多用した女の子の可愛いメールも大好き。カラフルな画面は見ていて飽きない。過去の既読メールをスクロールしていくうちに、ひとつだけモノトーンの素っ気ないメールが目に付いた。

『送信者:跡部 景吾
     俺の許可なしに来るな。うぜぇ』

どうしてこのメールの前じゃ、美脚のお天気おねぇさんも女の子の甘ったるいメールも、すべてが霞んでしまうのだろう。
さっきの女の子から返事が来たが、それ以上返す気になれなかった。

(俺が俺でなくなる感じ)

千石は再びケイタイをぱちりと閉じた。


違和感に気付いたのはいつからだったか、千石にはわからない。
いつものテニス、いつもの会話、いつもの生活。「楽しい」をモットーにしている千石にとって「疲れる」ことは無いはずだった。
端から見ればハードな練習も本人は好きでやっていたことだし、人間関係でぎくしゃくしたこともない。
なのに、最近は。
(疲れるんだよなぁ…)

彼といるといつものテニスが出来ない。
(プレッシャー?そんなもの感じたこと無いよ)
彼といるといつものように会話が出来ない。
(だって向こうは相槌程度しかしてくれないし)
彼といるといつものように生活できない。
(金持ちで俺様で。そんな人と気が合うかっての)

こうも自分のペースを乱す相手に。
役に立たない頭フルに使って、少しでも近づこうとしてる。今までの自分を捨ててまで。
どうして?
理由なんて分かり切ってる。

(俺は彼に恋をしている)


「恋だって…」
考えてブルーになった。
今まで築いてきた自分が、がらがらと音を立てて崩れていく。
本当の恋愛って重いんだなぁ。普通、中学生ってもっと甘酸っぱい学園ラブとかじゃないの?何なの、14にしてアイデンティティの危機にさらされてる俺ってどうなの?なんて、愚痴ってみてもしょうがない。
向かう気持ちは完全に理性を振り切ってる。
彼が好き。
(跡部くんが、好き、だ)

こんな風に改めて考えるとヘコむ。 ヘコむけど、幸せになる。ふわふわして、彼に会いたい気持ちがものすごい勢いで膨らんでくる。 重傷だ。いてもたってもいられなくなる。
千石は再びケイタイを開くと、手早くメールを送った。 授業開始直後に送ったまま返事が返ってこない、そのアドレスに。
送信確認の画面が表示されたのと同時に終業のチャイムが鳴った。



春が過ぎて、日もずいぶん長くなった。もうすぐ夏が来る。
部活が終わったと同時に学校を飛び出し、彼の学校へ向かう電車に乗った。車窓から射し込む光はだいぶ傾いて、千石のオレンジ髪をもっと赤く染め上げている。 ポケットからケイタイを取りだしメールをチェックしたが、彼からの返事はなかった。強豪校の氷帝のことだ、大会を前に遅くまで練習しているのかもしれない。3年の夏。今年で最後の大会。
彼と出会ってから、既に2つの季節が通り過ぎた。俺の中でキミの存在は日に日に大きくなっていって。

キミにとって俺はどんな存在かな。キミの生活のほんの一部でいいよ。俺に分けてくれないかな?

『嫌だ』

(何コレ?)
マナーモードにしっぱなしのケイタイが、メールの受信を告げた。送信者は、愛しいあの人からだったが、文面は相変わらず素っ気ない一言。
(嫌だって…『来るな』じゃなくて、『嫌だ』?)
あまりにもタイミング良すぎる。さっきまでもんもんと考えていたことに対する彼からの最終通告のようで、なんて不幸なんだと落ち込んだ。
「そんなこと言ったって、もう来ちゃったよ〜」
氷帝への最寄り駅を告げるアナウンス。仕立てのいい制服たちが乗り込む波をすり抜け、千石は電車を降りた。




「来るなっつったろ!」
「来るなじゃなくて、『嫌だ』だったよ?」
「そういうのを屁理屈っつうんだ!俺様は許可してねぇ」
「返事遅いよ、跡部くん。メール見たの駅着いてからだもん」
「じゃあ、そこで帰れよ」
「酷いッ!!」

結局、千石のラッキーのおかげか跡部は部室でひとり残っていた。彼曰く、非レギュの活動報告書を纏めていたそうだ。毎週末、顧問に提出が義務づけられているらしい。
(それもメールで。なんて無駄にハイテクなんだ!)
管理体制がしっかりしていると感心する反面、あまりにも多い部長の仕事にちょっと顔を顰めた。
「うちのとこなんて、テキトーに指示出してるだけだもんなぁ」
それは千石の認識であって、山吹・部長である南の仕事も決して軽いものでは無い。しかし、氷帝は200人もの部員を抱えており、それを纏め上げる立場にいる跡部の責任と重圧は相当なものに違いない。
「部長なんだから当然だろ」
彼はそんな風に言うけれど。
(部長で、生徒会長で、学園のアイドルで、跡部財閥の子息で)
「忙しいね」
千石に背を向けタイピングを続ける跡部に、聞こえるか聞こえないかの声音で呟く。
「俺に分ける時間なんてこれっぽっちもないんだろうなぁ」
俺にとってキミは既に生活の大部分を占める存在なんだけど。
辺りは徐々に薄暗くなって、モニターの光が浮き立つ。目が悪くなるよ、と言いかけて止めた。今は暗い方が都合いい。彼のお得意のインサイトで、気持ちまで暴かれそうだ。
千石が黙ると、部屋にはタイピングの音しか聞こえなくなった。
それがなんだか、彼の世界に千石が存在していないことを表しているようで。

「あとべくん」

声を上げないと、放って置かれる気がした。
(気付いてよ、跡部くん)
跡部の手が止まる。

「充分だ」

後ろを振り返らず、真っ直ぐモニターを見たまま彼は言った。

「充分すぎる。これ以上、お前にやれるか」
「………」

彼はそう言うと、再びタイピングを始めた。

(やられた……)


日は完全に落ち、外は夜の気配を増してきたが、それでも部屋の電気をつけなかった。
きっと彼の耳は赤くなってるだろうから。
きっと俺の顔はにやけてるだろうから。
今は互いに気付かないフリをしようと思った。


春日 凪



あくまでも中学生…



ナツコイ