簡単な計算だ。
教壇で数学教師がテキストの問題解析をぐたぐたと説明している。黒板に書かれる数式の羅列を目で追いながら、真っ白なノートに小さく数字を書く。
26と18。
二つの数字の下に一本の線を引き終わる前に、性能のいい頭は答えをはじき出す。
差は8。その数字が多いのか少ないのか、土方に判断は付かないが、ただ「遠い」と思った。
遠い。それは8年という歳月だけではなく、彼の、土方より8年分の出会いと別れを経験した彼の余裕ある態度が、自分の未熟さを感じてしまう土方にとって、渇望し、どうしても手に入らないと唇を噛みしめてしまうそのものだったりするからだ。
一歩進む毎に、彼も一歩前へと踏み出す。その差は決して埋まることがないように思えて、絶望的な気持ちになった。
頭の遠くでチャイムが鳴り響く。ざわめき出す教室に、終業を告げる教師の声が重なった。単調に繰り返される号令の後、土方は今し方自分が走らせた筆跡に渋い顔をして、ぐしゃとノートを握りつぶした。
「何してるんですかィ?」
「何でもない」
丸めた紙くずを教室の隅のゴミ箱へと放り投げる。綺麗な放物線を描くそれに、今自分が抱えている不透明な気持ちも捨ててしまえたらと、思わずにはいられなかった。
定期試験最終日だというのに、土方は絶不調だった。
今朝から身体は異変を訴えてはいたが、明日からは長期休みに入ることも考えて、少しばかり無理をして登校した。勿論、学校のシステムとして試験を休んだ者には追試やレポートと言った措置をとってくれるはずだが、最終科目は不幸なことにあのやる気の見られない担任が持つ生物である。お世辞にも真面目とは言えない彼のことだ。もしかすると面倒くさがって何もしてくれないことも考えられる。その結果、単位を落とすなんてことになったら、今までの頑張りが水の泡だ。そんな結論に至った土方は、結局倦怠感を纏う身体を叱咤して定期考査に臨んだのである。
試験が始まって30分。時間を追う毎に土方の症状は悪化していて、熱に浮かれた頭はうまく働かない。
シャーペンを握る自身の手にうまく力が入らなくて、何度か落としそうになった。紙に鉛筆を走らせる音が徐々に聞こえなくなって、教室という現実から切り離されたような気がしてくる。じっとりと額が汗ばんで、重力に従うように瞼が下がる。白い紙上の文字が歪な形を作って、目の前を飛び交った。
「ッ……」
ぐらぐらする視界から全てを投げ出そうとしたとき、頭上から声が降ってきた。
「何してんだか」
反射的に顔を上げれば、白衣をだるそうに纏った生物教師が、呆れた表情をして見下ろしている。突然の言葉に土方だけでなくクラス中が彼へと視線を注いだが、彼は臆することなく強引に土方の腕を掴み、そのまま立ち上がらせる。
「具合が悪いなら、早く言え」
少し怒ったような担任の口調に、ただ茫然と立ちすくむことしか出来ない土方は、そのままずるずると引きずられる様にして教室をあとにした。
「せんせ、試験……」
どの教室も試験中なので静まり返っている。前を早い歩調で進む銀時の底の薄いスリッパが、ぺたぺたとこの状況には似つかわしい可愛い音を立てている。
「そんな体調で出来んの?」
前を向いたまま淡々と答えた銀時に、土方は黙り込んだ。どうしてか不機嫌な彼に言いたいことはたくさんあったが、確かに今の体力じゃ口を動かすことさえ億劫だった。
「どーせ、内申点いいから悪い成績にはなんねぇだろ」
「………」
「自分の体調管理ぐらいきちんとしろよ、もう高3だぜ?」
いつにも増してとげとげしい銀時に、土方の眉間にしわが寄る。彼の言ってることは正論ではあるが、そもそも自分が無理をして登校したのは、普段の彼の態度のせいである。銀時が普通の教師であれば、土方は安心して追試の手続きをしたに違いない。
この理不尽さに、もともと細い土方の堪忍袋の緒は、意図も容易く切れた。掴まれていた手を振り解き、周りが試験中であることも忘れて怒鳴り上げた。
「ッ……!言いたいことばっか言いやがって!だいたい、テメーがちゃんとしてれば俺だって無理しねェ…!誰のせいだと思ってんだッ?テメーがいっつも適当で……俺に嫌がらせばっかりするから……!」
一気に捲し立てて、かぁと頭に血が上ったのが分かった。自分の発した声がぐわんと頭の中で響いて眩暈がする。身体が限界を訴えているのをどこか冷静に感じていた。足下から引きずられるように力が抜ける。
「え?」
こちらを向いた銀時のびっくりしたような表情が視界の隅に入ったかと思うと、真っ暗になった。
「オイ、土方!?ちょっ………」
そのまま土方は意識を手放した。
次に土方の視界に入ったものは白い天井だった。
「あ……?」
自分の置かれている状況が掴めず、いまだ焦点の合わない瞳で天井を見上げる土方の隣から、クスと小さく笑い声が聞こえた。
「気が付いたか?お前、急に倒れるから…」
「せんせ…」
そこでようやくここが保健室であることに気付く。しかし、保険医の姿はなく、土方が今寝ているベッドの隣に置いてある丸椅子に担任が座っているだけだった。
「熱は、まだあるな」
「っ…」
額に当てられた銀時の手は、思ったよりひんやりとしていて、身体が跳ねた。その温度差に、自分の体温が高いことを自覚する。自然に緩む視界は、きっと熱で潤んでいるせいだ。そのぼんやりとした世界で、銀時が見たことのない表情でこちらを見ていた。
「ホント、馬鹿だな」
ぼそ、と呟かれた言葉はいつものように揶揄した口調ではなく、まるで慈しむような暖かい声音だった。額に置かれた右手は、じんわり滲んだ汗に張り付く前髪を掻き上げ、幼い子供をあやすように何度も頭を撫でていた。その心地よさに目を閉じた土方に、優しく担任の囁きが落とされる。
「怠けることと、力を抜くことは違うんだから。何事にも一生懸命なのは、お前らしいって言えばお前らしいけど、少しは休めよ?」
「ん…」
鼓膜を柔らかく擽る担任の声。
気を失ってどのくらい経ったのだろうか。土方の位置からは時計が見えない。放課後にしては静まり返っているのは、まだ試験時間中なのだろうか、それとも下校時刻をだいぶ過ぎたか、のどちらかだ。どちらにしろ、銀時はずっと土方の傍に付いていたのだろうか。
「先生…」
「ん?」
「せんせい…」
「どうした?」
「……せんせぃ」
「………」
熱に浮かされた頭では、何も考えることが出来ない。ふわふわと、土方の体を包む浮遊感は、上昇しきった体温のせいか、それとも目の前の担任が出す優しげな雰囲気から来るものなのか、今の土方には判断しかねる。ただわかるのは、額に置かれた大きな手が心地いいことぐらいだ。
「……土方。そんな目すんな」
「?」
「悪い大人に悪戯されてもしらねーぞ」
いたずら?土方は頭の中で何度も担任の台詞を反芻したが、やはり熱のせいできちんと理解することが出来なかった。
「はぁ、お前は本当に…。――まぁいい、今は寝ろよ。楽になったら送っていってやるから」
「……はい」
もう一度優しく頭を撫でられて、土方はうっとりと目を閉じた。彼が睡魔に全てを明け渡すまで、銀色の髪を持つ担任は何度もその髪を梳いていた。
小さく寝息が響く保健室で、銀時は小さく呟く。
「あんまり先生を困らせるなよ…」
その声音と同じように、暖かく愛しさのこもった熱が唇に落とされた。
春日 凪
3Zの土方は基本かわいい。