惚れた女がいた。俺はそいつを幸せにできない男だった。それはただそれだけのことだった。

俺の想いに気づいていた人間は俺の選択にそれぞれがそれぞれらしい態度を見せたものだ。総悟はあのときから更に俺に対して敵愾心を抱くようになったし、近藤さんはしょうがないなと笑って俺を酒に誘い、始終関係のないバカ話を続けただけ。絶えず俺の背中を叩いていた手にいつもよりも力が入っていたことは覚えている。

あいつについては最後に一度だけ悲痛な声で俺の名を呼んだこと以外は知らない。背を向けて去った俺がそれ以上知るはずがなかった。

「言えばよかったのによォ」

あいつの葬式には結局参列せず、遠くから棺が運ばれる様を眺めていた俺に声をかけてきたのが坂田だ。一瞬、葬儀に出席したのかと驚いたが、その恰好がいつものだらしない服装であることに気付いて、そうだろうなと納得する。
坂田と葬式というのは何とも似合わない図だった。坂田は、別れを他者と共有して惜しむよりも、一人きりでその存在と向き合って告げる口だと思う。飲みに行かないかと誘われて頷いたのはこいつがそういう人間だったからだ。あいつの葬式に出た奴らと顔を合わせるより、今の俺にとってはこいつの方がずっと気が楽だった。

この問いかけも別段不快に思わない。それよりも、いつもよりハイペースだというのにまったく酔いはこないことが俺にとっては苦痛だ。もう過ぎたことだというのに感傷に浸りすぎている自分が鬱陶しく、コップに入った酒を一気に煽り、音を立てて机に置く。喉が熱さに悲鳴を上げたようだが、俺の中枢に伝わったのはわずかばかりの生理的な吐き気だけだった。

「たとえ、同じ人生を百万回繰り返そうが、俺は絶対に言わねェ」

そういうこともあるのだ。お前にわかるはずもないだろうが。

馬鹿にしているとか、悲劇の主人公ぶっているわけではなく、ただそういうものだと思って坂田を見返した俺はそのまま静止する。

「わかるさ」

ゆるく微笑む坂田の瞳はどこか俺を責めているように見えた。



神田 なつめ



フリージアの棘